二回目である。多くのSFファンが絶賛する作品であるが、ハードSF的にはさほどすばらしいものではない。ひとつのタイムパラドックスものだと考えればいいだろう。SFであるがSF的でないという意味では、「アルジャーノンに花束を」のほうがはるかに感動ものである。
しかし、傑作であることは事実である。今回は少し長めにコメントしよう。
一言でいえば、SFとはなにを伝えるものかを再認識させてくれる作品であると思う。数々の伏線がはられており、それらが一気に氷解していく後半部分のスピード感は、さすがに一流のストーリーテラーである。コメントの寄せ集め式に感想を書こう。
■猫のピート
この作品の一番のポイントは猫
では、犬ではいけないのか?
いけないと私は思う。この作品のベースとなっている「タイムパラドックス」は、それを論じる際どうしても猫には触れないといけないのだと思う。触れることが礼儀なのではないだろうか。そう。明らかに猫を持ち出したのはシュレディンガーの猫なのだと想像したい。詳細は3/19の記事(未来からのホットライン)参照。
実際には、「猫好きにこの本を捧げる」との作者のコメントがあることから、上記の解釈は猫嫌いのたわごとなのだが・・・。
■文化女中器
ハイヤード・ガールの日本語訳である。家事をこなしてくれるロボットの原型である。あまりにひどい訳だと思う。英語の語感を感じ取れないのが残念だが、英語圏の人にはどのような響きなんだろうか?
さて、実はここに愛
また、主人公は部品交換式組立方式(修理しないで部品を交換することで利便性を高める)を進めていく。モジュール化なんだが、それは利用者の利便を考えたものであり、現在の(プリンタのインクのような)消費促進のための、つまり生産者の利便を考えたものではない。ここに技術者としての愛
■たった一体の人形のために燃えさかる建物の中にとって返す
これは主人公の言葉である。11歳のこどもに対するときにつぶやくのであるが、先の文化女中器同様に育児をしていないとわからないセンテンスである。ここにも愛
■主人公の一人称語り部形式
作品は主人公が回想するというような形式をとっている。感情移入がしやすい語り口であり、時代があちこち飛んでも複雑さを回避することが可能である。タイムパラドックスを扱う割にわかりやすいSFにしたてることができたという意味でいい手法だと思う。
■未来を変えるための過去訪問
タイムパラドックスである。未来を変えるために、主人公は過去に戻って画策するのである。作品中のタイムマシンは、過去か未来かどちらにいくのかわからないという設定になっている。したがって同じ体重分のおもりと人間が同時にタイムマシンにかけられる。うまくいけば、希望の過去(もしくは未来)にいくことができて、おもりのほうはその逆に飛ぶことになる。
プラスとマイナスの時間軸理論であり、なかなかこれは楽しめる。もう少し詳しい挿話があったほうが良かったと思う(堀晃氏の作品では何度か出てくるのだが)。
■過去に戻ってもう一人の自分を殺したら?
過去に戻った主人公自らがその過去の時間軸にいる自分を見てこう思うのである。まさにタイムパラドックスの原点である。考えようによっては逃げだが、さらりとそれを主人公に言わせるあたり、この問題がテーマではないのだという作者の意図が見えてさっぱりすると私は思う。
同様のタイムパラドックスに関する部分は、最後の最後でかなり長く語られる。主人公がハッピーエンドの妻に説明するというスタイルでモルモットの例から多元宇宙論(もう一つの宇宙、もうひとつの未来)まで展開されるのだが、語り手が主人公であり、まさにラスト数ページであるのでエピローグ的な位置付けになっているのが少し残念である。
もっとも、これらは「タイムパラドックスがテーマではない」が「それを無視しているわけではない」加えて「だから猫を登場させているだろう?」という作者の声が聞こえてきそうだが・・・。
■レオナルド・ダビンチの謎
挿話というスタイルで、ダビンチが実は現在から過去にいったトラベラー(帰ってくる方法がないのだから、厳密にはトラベラーという表現は不適切だが)だったという示唆がなされる。これもテーマからは外れるということで挿話にしているのだが、これはこれでタイムパラドックスもののファンに対するサービスなんだろう。
■タイトル
これにはだまされる。「猫のピートは冬になると家中の扉を開けろと主人公に要求する。なぜなら、そのうちのどこかはきっと夏につながっているはずだと考えるからだ。」
ここを冒頭に読んでしまうと、タイムマシンで過去に帰っても結局つながっている先(未来)は変わらないのだということを暗示していると思ってしまう。このスタイルはまさに「今、会いにいきます(映画)」のスタイルである。
でも逆である。夏への扉は存在する。信念と愛さえあれば必ず夏へと続く扉をあけることができるのだ。
これがテーマであり、そのテーマを語るための舞台装置としてタイムパラドックスを使ったに過ぎないのである。確かに傑作といわれるほどのことはある。ただ、それでも私はSF的には面白くないと思う。











